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小谷城攻め(織田信長vs浅井長政)




元亀元年(1570)6月の姉川の合戦で織田信長・徳川家康連合軍は浅井長政・朝倉義景連合軍を破り、朝倉軍は越前国に敗走、浅井軍は小谷城に籠城することになった。ところがその直後に摂津国において三好三人衆の蜂起(野田・福島の合戦)、石山合戦の勃発などにより、信長は浅井・朝倉攻めのみに力を集中するわけにはいかなくなったのである。
しかし、依然として緊張した状態は続いていた。陥落させた横山城や、小谷城の近くにある虎御前山に砦を築いてそこを小谷城攻撃の拠点と定め、羽柴秀吉を小谷城攻めの抑えとして残した。秀吉は、小谷城を囲む一方で浅井氏重臣たちの勧降工作を進め、支城主を寝返らせ、小谷城を孤立化させる策を取った。元亀3年(1572)には信長自身が近江国の横山城まで出陣し、3月7日に小谷城を攻め、余呉・木之本方面にまで放火、ついで7月にも江北に出陣している。

天正元年(1573)8月初旬、近江国山本山城主・阿閉貞征が寝返ってきたとの報に接した信長は即座に出撃命令を下し、8月10日には織田方の大軍が小谷城の北に回り、越前との連絡路を遮断、朝倉・浅井の分断化に成功したのである。信長出馬の報を得た朝倉義景は、2万の軍勢(数については異説あり)を小谷城救援に送り込んでいたが、小谷城の防衛拠点の砦が落とされたこと知って撤退を始めたが、そこを織田勢は猛追撃、そのまま越前へと侵攻し、8月17日には朝倉氏の本拠・一乗谷まで攻め込み、朝倉氏を滅亡させた(朝倉征伐(その2))。
このあと信長は取って返し、26日に虎御前山に凱旋、翌27日から小谷城の総攻撃にかかった。
この日の夜半、3千の兵を率いる羽柴隊がまず京極丸に攻め落とし、隠居の前当主・久政の籠もる小丸と長政の本丸間を分断した。そして小丸の攻撃に移り、28日には久政を自刃に追い込んだ。

このとき秀吉は信長の妹であり、長政の妻となっていたお市の方とその3人の娘を救うために開城降伏の勧告を行ったが、長政はこれを拒否。しかしお市の方と娘たちは織田勢に送り届けられた。嫡男の万福丸には家臣をつけて密かに脱出させた。
同じく28日より、長政のいる本丸にも総攻撃がかけられた。長政は5百の手勢でよく防戦し、柴田勝家や秀吉も攻めあぐねるほどだったが、ついには織田勢の猛攻の前に屈し、9月1日に覚悟を決めて自刃した。朝倉氏に続き、ここに浅井氏も滅亡したのだった。
この浅井攻めの論功行賞において、秀吉に浅井氏の旧領と小谷城が与えられ、秀吉はここに城持ち大名となったのである。

戦後、信長は浅井久政・長政父子の首を京で獄門にかけ、密かに逃れていた長政の嫡子・万福丸も探し出して磔刑に処した。さらに久政・長政・朝倉義景の首を箔濃(はくだみ。肉を削いで頭蓋骨に漆を塗り、その上に金粉を塗ったもの)にし、翌天正2年(1574)の正月の宴において、それに酒をついで諸将に飲ませたという。




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