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金ヶ崎の戦い(織田信長 vs 朝倉義景)



 将軍の推戴を天下統一の足がかりと考えていた信長は、将軍権力を楯に義景の上洛を強要、これを信長の謀略と見た義景は、拒否すると同時に京、若狭への国境の守の強化に乗り出す。
 信長は朝倉氏の上洛拒否は織り込み済みで、これを朝倉討伐の口実にと考えていた。
 元亀元年(一五七〇)二月末に上洛した信長は越前侵攻の準備を進め、一応名目は若狭武田氏被官武藤氏討伐として、四月二十日同盟の徳川家康軍を加え、大軍で若狭(本音は越前)を目指し坂本を出陣した。出発時は織田軍は三万程度であったが、若狭衆など各地から集まった軍勢は 、敦賀では総数で十万に達したともいわれているが正確な数はもとよりわからない。
 この頃若狭守護であった武田元明は朝倉氏に拉致(保護)され、一乗谷に居住していたため、小浜の武田一族や一部の被官人が頑強に反信長にたっていたものの、重臣の一部は信長に通じており、織田・徳川連合を 倉見峠で出迎えた。いよいよ織田軍と、朝倉氏の戦いの火蓋が落されることになるわけで、世に言う「元亀争乱」の始まりである。
 信長は自信満々兵を推し進め、手筒山城、金ヶ崎城を正面にみる妙顕寺に陣を構える。義景も迎え撃つべく一乗谷を出発するも、準備に手間取り進む速度は遅く、二五日、手筒山は要害の地であったが、信長軍 は手薄な裏手の湿地帯がわから猛攻を加え、激戦となり、双方で数千人を超える死者を出してついに陥落、守備にあたっていた金ヶ崎城主(敦賀郡司)朝倉景恒は金ヶ崎城へ陣を引いた。
 信長は城を明渡すよう景恒を説得、翌二六日ついに開城させることに成功した。同じく疋田氏が守る疋田城もこの時開城に追い込み破却をはじめた。
 信長が陣を張った妙顕寺は、敦賀市元町に在り、ちょうど東側正面に手筒山と金ヶ崎が壁のように奪え立つ敦賀市内のど真中という立地である。現在でも寺の境内は結構広く、当時の規模の大きさを彷彿させてくれる。この地に十万を超える軍団が集結している様を山城頂上から目の当たりにして、朝倉景恒が開城したというのも無理からぬことであった。
 そして、一部の部隊は木の芽峠を越え、いざ朝倉の本拠・一乗谷へ、という矢先の二八日、信長のもとに江北の浅井長政が反旗を翻し、海津に進出、疋田方面から織田軍の背後を塞いだという報が入った。朝倉氏と浅井氏は永年の同盟関係にあったが、妹である市を長政の下へ嫁していた信長は、義弟浅井長政が朝倉に味方するなどとは予想もしていなかった事態であった。

注  残っている発給文書や江北にある朝倉氏の築城状況からみて、最近の研究では当時の朝倉氏と浅井氏はかつての同盟関係ではなく、浅井長政は朝倉義景麾下に属する武将(郡司級)とする見解が有力視されている。
 また一乗谷には他の朝倉氏重臣と同様、浅井氏の館も在ったとされる。

 しかし、ぐずぐずしていると退路を絶たれて、「袋の鼠」となりかねない状況に陥り、殿(しんがり)に木下秀吉を置き、朽木氏の支援を得て、ほとんど身一つで命からがら敦賀から朽木越えで京都へ脱出する羽目になる。
 世に言う「金ヶ崎の退き口」である。
 三十日、京に辿りついた時、信長の供回りは十人程度であったといわれている。
 一方、二八日敦賀に到着した朝倉義景率いる軍は二万であったが、すでに信長は逃亡したあとで、追撃戦では僅か千三百程度討ち取ったに過ぎなかった。
 歴史に「もしも」は無いが、この時、小浜で反信長の急先鋒であった武田信方や朝倉・浅井の連携がもう少し巧妙であれば、信長を討つ絶好の機会であったことは間違いない。
 この後、朝倉義景は朝倉景鏡を大将として、二万余の軍を江北に送り、信長勢力に打撃を与えるとともに、朝倉軍は美濃の垂井・赤坂まで進攻したため、信長は危険を回避するため 、東山道は通らず、迂回して伊勢経由で五月二二日岐阜に帰った。それでも途中の千草峠では狙撃されるというおまけまでついていた。


 



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